こんにちは、makinaです。
先日、初めて、新しいSNS「note」に、書評を書きました。
それを朗読したものを、音声でも配信しています。
makinaこと牧 菜々子の書評(音声版)はこちら↓
https://note.com/makina81/m/m485bf41cecc9
そこで考えたのが、「書評って、何のために読むのか?」ということです。
私は、こう思います。
知っていることを、もう1回言ってもらうために読むのではないか、と。
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全く知らない本の書評は読む気がしない
だって、全く知らない本の書評なんて、読む気がしないからです。
何かしら、接点があったり、すでに読んだ本だったり、内容の予測がつくような本でないと、その「書評」を読む気にはなりません。
「この著者だったら、だいたいこんなこと言ってそうだな。」と見当がつく本で、なおかつ、好みのもの。
そんな本の書評なら、読む気が起きてきます。
内容を知っている本の書評は満足感が大きい
もちろん、全く知らない本のあらすじが知りたくて、書評を読んでみるという人もいるかもしれません。
それも、本への入り口として、書評が機能しているということですから、正しいです。
でも、それだけではないのです。
書評を読んだ時の満足感は、その本の内容を知っている時に、大きくなります。
そうそう。
わかるわかる。
そうだよね。
そう言いながら、書評を読む時。
満足感は、大きいのです。
知っていることをもう1回言ってもらうために書評を読む
その本は知っているし、読んだし、内容もだいたい見当がつく。
そういう本の書評を読むと、とても満足できます。
人は、知っていることをもう1回言ってもらうために、書評を読むのです。
本の内容が知りたくて読むのでは、実はないのです。
書評に求められるもの
そうであれば、書評に求められるものは、その本を読んでいない人に向けての「あらすじ紹介」ではありません。
「この本を知らなかったけど、そういうことが書いてあるんだ。ふーん。」と思ってもらうことではありません。
その本を知っている人、読んだ人、だいたい内容は見当がつくという人に、もう1回同じことを言うために書くのです。
「ひねったことを書いていないと書評とは言えない」ということは、決してありません。
どうしてかというと、ひねったことが書いてあれば読んだ人の満足感が大きいということではないからです。
書評は、同じことをもう1回言うことに、意義があるのです。
そうして書き上げた書評が、副次的に、その本を知らなかった人にも楽しんでもらえたら、こんなにうれしいことはありません。
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牧 菜々子の書評(音声版)はこちら↓
https://note.com/makina81/m/m485bf41cecc9